臨済宗 東海寺

分類:寺院
所在地:東京都品川区北品川三丁目11番9号
URL:不明
剣道に関連する事柄:
沢庵宗彭(不動智神妙録)

概要:
寛永16年(1639年) 徳川家光が沢庵宗彭を招聘して創建。沢庵を住職とする。
沢庵宗彭について
澤庵 宗彭(たくあん そうほう、天正元年12月1日(1573年12月24日) – 正保2年12月11日(1646年1月27日))は、江戸時代の臨済宗の名僧。大徳寺住持。諡は普光国師(300年忌にあたる1944年に宣下)。号に東海・暮翁など。但馬国出石(現兵庫県豊岡市出石町)の生まれ。紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開いた。書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。一般的に沢庵漬けの考案者と言われているが、これについては諸説ある。
寛永9年(1632年)、将軍徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海や柳生宗矩の尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された。沢庵が柳生宗矩に与えた書簡を集めた『不動智神妙録』は、「剣禅一味」を説いたものとして著名である。『不動智神妙録』は禅で武道の極意を説いた最初の書物である[1]。沢庵はいったん江戸に出て、神田広徳寺に入った。しかし京に帰ることはすぐには許されず、沢庵は同年冬駒込の堀直寄の別宅に身を寄せ、寛永11年(1634年)夏までここに留まった。宗珀とともに大徳寺に戻ったのち、将軍・徳川家光が上洛し、天海や柳生宗矩・堀直寄の強い勧めがあり、沢庵は家光に謁見した。この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになった。
同年、郷里出石に戻ったが、翌年家光に懇願されて再び江戸に下った。沢庵は江戸に留まることを望まなかったが、家光の強い要望があり、帰郷することは出来なかった。寛永16年(1639年)、家光は萬松山東海寺を創建し沢庵を住職とする。家光は政事に関する相談もたびたび行ったが、これは家光による懐柔工作であると考えられている。それは逆に言えば沢庵の影響力がいかに強かったかを示している。正保元年(1644年)、土岐頼行が萬松山東海寺に出羽国上山の春雨庵を模した塔中を、沢庵のために建立した。晩年の沢庵の言動は変節とも、家光に取り込まれたとする説もあるが、最終的には紫衣事件において幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らへ紫衣を完全に奪還し、無住状態の大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯を揺らぎないものにしたのである。正保2年12月11日(1646年1月27日)、沢庵は江戸で没した。「墓碑は建ててはならぬ」の遺誡を残しているが、円覚山宗鏡寺 (兵庫県豊岡市出石町)と萬松山東海寺(東京都品川区)に墓がある。
*『不動智神妙録』の原本は現存せず、沢庵から柳生宗矩に書き贈ったという事実を証する史料はないが、沢庵の作であり、しかも柳生宗矩のために書いたということは当時から認められていたようであり、今日では定説となっている(同書)。

ウィキペディアより

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