武運祈願

分類:寺院
所在地:山梨県甲府市朝日5-2-11
URL:http://seiunzi.main.jp/
剣道に関連する事柄:
千葉さな子(北辰一刀流)

概要:
妙清山清運寺は応長(1311年)の昔、加賀美遠光の曾孫 秋山与市郎隆晴が屋敷内に堂宇を建立し立像釈迦を安置することに始まる。時を経て隆晴の末孫 秋山孫四郎晴朝 深く法華経を信仰し 時の身延山第十一世日朝上人に師事し出家得度して 宝琳院日賀を賜わり 明応九年(1500年)四月二十八日当山を創立された。
また当山には清正公・日朝上人・お産稲荷・三十番神が祀られ、特に清正公はせいしょこさんとして長く親しまれています。
千葉さな子は江戸の桶屋町で千葉道場を開いていた千葉定吉の長女でした。当主の千葉定吉は北辰一刀流の開祖千葉周作の弟です。坂本龍馬はこの定吉の千葉道場で、安政三(1856)年から五年までの三年間、剣術の修行に励んでいました。その縁でさな子と知り合ったわけです。さな子はなぎなたの名人でもあり坂本龍馬とともに剣術の修行に励んでいたことでしょう。しかし動乱の世、結局龍馬とさな子は結ばれることなく別々の人生を歩むことになるわけです。さな子はその後、家伝の灸で生計を立てていました。その灸の患者である自由民権運動家の小田切謙明夫妻と懇意になり、さな子の死後、豊次夫人の好意により無縁になる谷中の墓地より分骨し、小田切家の菩提寺であるこの清運寺に墓を建てたのです。墓には「坂本龍馬室」と刻まれており、龍馬を思い続けたさな子の気持ちを察した豊次夫人の思いやりが感じられます。さな子の墓は今でこそ坂本龍馬ファンがたくさん訪れますが、以前は剣道など剣術の修行をしている方がさな子の強さにあやかりたいと必勝祈願に来られることが多かったものです。

分類:寺院
所在地:東京都台東区上野4丁目6番2号
URL:http://www.marishiten-tokudaiji.com/
剣道に関連する事柄:
摩利支天

概要:
山号は妙宣山。本尊は大曼荼羅。開運摩利支天を祀ることから摩利支天山とも称される。周囲を商店に囲まれた環境の中で立体構造型の特異な寺院様式を呈しており、参道上にアメ横周辺では異色の空間といえる境内が広がる。正午や夕暮れ時の商店街に響きわたる鐘の音は、徳大寺の鐘楼堂によるものである。
この寺の創建年代等については不詳であるが、江戸時代前期の1653年(承応2年)に示寂した日遣によって開山されたと伝えられる。京都本法寺の日達が下総国中山(現在の千葉県市川市)の法華経寺へ赴く際に感得した聖徳太子作と伝えられる摩利支天像が1708年(宝永5年)この寺に安置され、その後江戸における流行仏のひとつとして庶民の信仰を集めた。
徳大寺に奉置される摩利支天像の姿は、左手をかかげ、右手に剣を持ち、走るイノシシの上に立つものである。元来、厄を除き運を開く勝利の守護神であり、武士や芸道者に多く信仰を集めた。その由来から武人の誉れ高い神を祀る寺として、戦前においての徳大寺は半ば神社並みの寺風を擁していた。この摩利支天像は関東大震災や東京大空襲などの災厄でも焼失を免れており、現在でも厄を祓う守護神として幅広く信仰されている。

*摩利支天とは
原語のMariciは、太陽や月の光線を意味する。摩利支天は陽炎(かげろう)を神格化したものであるが、元々はヴェーダ神話の暁の女神ウシャスが仏教に取り入れられた姿とも言われる。陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない。隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の通力を有すとされる。これらの特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があった。護身、蓄財などの神として、日本で中世以降信仰を集めた。楠木正成は兜の中に摩利支天の小像を篭めていたという。禅宗や日蓮宗でも護法善神として重視されている。日本の山岳信仰の対象となった山のうちの一峰が摩利支天と呼ばれている場合があり、その実例として、木曽御嶽山、乗鞍岳、甲斐駒ケ岳があげられる。像容は元来二臂の女神像であるが、男神像としても造られるようになった。三面六臂または三面八臂で月と猪に乗る姿などもある。

ウィキペディアより

分類:寺院
所在地:東京都品川区北品川三丁目11番9号
URL:不明
剣道に関連する事柄:
沢庵宗彭(不動智神妙録)

概要:
寛永16年(1639年) 徳川家光が沢庵宗彭を招聘して創建。沢庵を住職とする。
沢庵宗彭について
澤庵 宗彭(たくあん そうほう、天正元年12月1日(1573年12月24日) – 正保2年12月11日(1646年1月27日))は、江戸時代の臨済宗の名僧。大徳寺住持。諡は普光国師(300年忌にあたる1944年に宣下)。号に東海・暮翁など。但馬国出石(現兵庫県豊岡市出石町)の生まれ。紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開いた。書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。一般的に沢庵漬けの考案者と言われているが、これについては諸説ある。
寛永9年(1632年)、将軍徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海や柳生宗矩の尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された。沢庵が柳生宗矩に与えた書簡を集めた『不動智神妙録』は、「剣禅一味」を説いたものとして著名である。『不動智神妙録』は禅で武道の極意を説いた最初の書物である[1]。沢庵はいったん江戸に出て、神田広徳寺に入った。しかし京に帰ることはすぐには許されず、沢庵は同年冬駒込の堀直寄の別宅に身を寄せ、寛永11年(1634年)夏までここに留まった。宗珀とともに大徳寺に戻ったのち、将軍・徳川家光が上洛し、天海や柳生宗矩・堀直寄の強い勧めがあり、沢庵は家光に謁見した。この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになった。
同年、郷里出石に戻ったが、翌年家光に懇願されて再び江戸に下った。沢庵は江戸に留まることを望まなかったが、家光の強い要望があり、帰郷することは出来なかった。寛永16年(1639年)、家光は萬松山東海寺を創建し沢庵を住職とする。家光は政事に関する相談もたびたび行ったが、これは家光による懐柔工作であると考えられている。それは逆に言えば沢庵の影響力がいかに強かったかを示している。正保元年(1644年)、土岐頼行が萬松山東海寺に出羽国上山の春雨庵を模した塔中を、沢庵のために建立した。晩年の沢庵の言動は変節とも、家光に取り込まれたとする説もあるが、最終的には紫衣事件において幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らへ紫衣を完全に奪還し、無住状態の大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯を揺らぎないものにしたのである。正保2年12月11日(1646年1月27日)、沢庵は江戸で没した。「墓碑は建ててはならぬ」の遺誡を残しているが、円覚山宗鏡寺 (兵庫県豊岡市出石町)と萬松山東海寺(東京都品川区)に墓がある。
*『不動智神妙録』の原本は現存せず、沢庵から柳生宗矩に書き贈ったという事実を証する史料はないが、沢庵の作であり、しかも柳生宗矩のために書いたということは当時から認められていたようであり、今日では定説となっている(同書)。

ウィキペディアより

分類:神社
所在地:東京都練馬区高松3-19
URL:不明
剣道に関連する事柄:
服部半蔵奉納の仁王像(仏教の守護神)

概要:
天正10年(1582年)京都でおきた「本能寺の変」の知らせを聞いた徳川家康は国元の三河に急いで帰国しました。このとき家康を警護していたのが伊賀衆でした。その後家康が江戸に入城したときに、伊賀衆はこの功績により新たに領地を与えられました。練馬の一部もその一つです。江戸に移り住んだ伊賀衆は服部半蔵の支配下におかれました。こうしたことから服部半蔵が奉納した仁王像が区内でみつかっています。服部半蔵奉納の仁王像は、阿形と吽形の2体で、いずれも高さが約1mあります。特に阿形像の後背には、「宝永三年(1706年)十二月廿日 大垣氏 服部半蔵尉藤原幸隆」の銘があり、この辺りが江戸時代に服部半蔵とゆかりのある土地であったことがうかがえます。もとは現在置かれている御嶽神社より約150mほど北側にあった高松(こうしょう)寺にありましたが、明治の初めに廃寺となったため、現在地に移されました。

練馬区の文化財あんないより

http://www.city.nerima.tokyo.jp/shiryo/bunkazai/bunkazai/b009.html

情報提供:剣道学会員 ジョリ剣さん

分類:寺院
所在地:東京都練馬区桜台六丁目20番18号
URL:不明
剣道に関連する事柄:
柳生宗矩(柳生新陰流)

概要:
戦国時代、関東一円に勢力を扶植していた北条氏当主・北条氏政の3男で、岩槻城主であった太田源五郎(長年太田源五郎は太田氏房と同一人物であるとされてきたが、近年の研究で、氏房の早世した実兄が先に太田氏を継承して「源五郎」と名乗っていた事実が判明している)が小田原に明叟和尚を招き、早雲寺の子院として開山したことが由来とされている。しかし天正18年(1590年)に豊臣秀吉の遠征により小田原城は開城し、北条氏が滅亡した際に広徳寺も炎上、焼失したとされている。その後、秀吉の命により関東を所領とした徳川家康は、天正19年(1591年)に広徳寺の2世となる希叟和尚を招き、江戸の神田に広徳寺を再興した。そして寛永12年(1635年)には下谷に移り、加賀前田氏をはじめ、九州の立花氏、織田氏、柳生氏など多くの大名が檀家とする大寺院となった。その広さは大田南畝の狂歌で「びっくり下谷の広徳寺」と詠まれたほどである。(これは現在でも知られている地口の一つで、「恐れ入谷の鬼子母神」などと並んで知られている)しかし大正12年(1923年)の関東大震災により、寺域はほぼ焼失。その2年後の区画整理で現在の練馬区に墓地だけを移転し別院とした。昭和46年(1971年)には本坊も移転し、現在の形となった。

ウィキペディアより

分類:寺院
所在地:埼玉県川越市菅原町9-6
URL:不明
剣道に関連する事柄:
毘沙門天像(武神)

概要:
妙善寺は、天台宗に属する元中院の末寺で道人山三心院と呼ばれ、開山の仙波中院28世尊能法印が寛永元年に父母の追福の為この寺を建立したものです。その父の法名を道仙三心と言い、仙の字を割って道人山と号し、母の法名を妙善大姉と言い、この法名から寺の名が起こったと言われています。堂宇は天明8年の火災によって焼失し以後仮堂でしたが、昭和53年壇信徒の総力によって念願の再建が叶ったものです。また、北側の菅原神社や六塚社も、やはり尊能法印が寺領に勧請したものでしたが、天明の大火によって後に現在の社地に移されたと言われています。創建時の本尊は薬師如来でしたが、今では不動明王を本尊とし、脇には阿弥陀如来、観世音菩薩、毘沙門天が安置されています。なお、境内には室町時代嘉吉元年(1441)契薫大姉逆修の年号を有する板碑供養塔、石造りの地蔵尊(元禄6年)、さつまいも地蔵尊等があります。

http://www.kawagoe.com/7fukujin/myouzenji.html より

分類:神社
所在地:栃木県日光市山内2301
URL:http://www.toshogu.jp/
剣道に関連する事柄:
武徳殿(戦後剣道復活の地)

概要:
日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は栃木県日光市にある神社。江戸幕府初代将軍徳川家康を神格化した東照大権現を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが多い。東国の精神的中心としての歴史は徳川氏の東照宮よりも遥かに早く、遅くとも源義朝による日光山造営までさかのぼりうる。さらに源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた。徳川氏の東照宮造営はこの歴史を巧みに利用したと考えられる。

歴史:
元和2年(1616年)4月17日、徳川家康は駿府(静岡)で死去した。遺骸は遺命により直ちに駿河国の久能山へ葬られた(久能山東照宮)が、翌元和3年に下野国日光へ改葬された。同年4月に社殿が完成し、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日に奥院廟塔に改葬され、4月17日に遷座祭が行われた。なお、改葬の際、吉田神道と山王神道のどちらで祀るかで論争となったが、天海が主張した山王一実神道が採用され、薬師如来を本地仏とする神仏習合により祀られることになった。寛永11年(1634年)には、9月に3代将軍徳川家光が日光社参し、寛永13年の21年神忌に向けて社殿の大造営に着手する。総奉行は秋元泰朝、普請は大工の甲良宗広ら一門が手がけた。翌寛永13年には、江戸へ来訪した朝鮮通信使が対馬藩主宗氏の要請で日光参詣を行っており、将軍家の政治的威光にも利用されている。正保2年(1645年)に朝廷から宮号が授与されて東照社から東照宮に改称した。国家守護の「日本之神」として、翌年の例祭からは朝廷からの奉幣が恒例となり、奉幣使(日光例幣使)が派遣された。家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からである。家康は遺言中に「遺体は久能山におさめ、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神としてまつること。そして、八州の鎮守となろう」と述べている。家康が目指した「八州の鎮守」とは、「日本全土の平和の守り神」である。家康は、不動の北極星の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたのである。明治初年の神仏分離により、日光は神社の東照宮・二荒山神社、寺院の輪王寺の二社一寺の形式に分立した。現在でも、一部の施設について東照宮と輪王寺の間で帰属について係争中のものがある。明治6年に別格官幣社に列せられ、第二次世界大戦後は神社本庁の別表神社となっていたが、昭和60年に神社本庁を離れて単立神社となった。

ウィキペディアより

分類:神社
所在地:千葉県香取市香取1697
URL:http://www.katori-jingu.or.jp/
剣道に関連する事柄:
経津主大神(武神)
飯篠家直(天真正伝香取神道流)

概要:
香取神宮(かとりじんぐう)は、千葉県香取市香取にある神社である。式内社、下総国一宮で、旧社格は官幣大社。日本全国に約400社ある香取神社の総本社である。祭神は経津主大神 (伊波比主命)。 神職首座は大宮司、大禰宜といい経津主の兄(子とも伝えられる)の天苗加命(あめのなえます)の子孫が香取連を名乗り首座となったが、後世大中臣氏(藤原氏)が養子に入り相互に重職を世襲した。正月三が日には50万人以上が参拝する。
関東地方を中心として全国に分社の香取神社がある。神宮の位置する山はその形状から亀甲山と呼ばれている。 香取の神は『日本書紀』神代紀一書において葦原中国の平定に先立って天の悪神(天津甕星)を誅する神「斎主神」(『古語拾遺』には経津主神)とされている。

歴史:
創建は、紀元前643年と伝えられている。『常陸国風土記』によると、神代の時代に肥後国造の一族だった多氏が上総国に上陸し、開拓を行いながら常陸国に勢力を伸ばした。この際に出雲国の拓殖氏族によって農耕神として祀られたのが、香取神宮の起源とされている。創建年が古すぎるとの異論もある。鹿島神宮と共に蝦夷に対する大和朝廷の前線基地であり、重要視されていた。平安時代に「神宮」の称号で呼ばれていたのは、『延喜式神名帳』によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三社だけであった。本殿から鹿島神宮本殿は約13キロメートル、ほぼ正確な北東にある(ずれは15分未満)。鹿島神宮とともに東国三社と称された息栖神社本殿は約8キロメートル、ほぼ正確な東にある(ずれは10分未満、緯度の違いは1秒未満)。中世においては、香取海での「浦・海夫・関」の支配権を握っていた。

分類:神社
所在地:茨城県鹿嶋市宮中2306-1
URL:http://www.bokuden.or.jp/~kashimaj/
剣道に関連する事柄:
武甕槌大神(武神、刀剣の神)
塚原卜伝(鹿島新当流)

概要:
鹿島神宮(かしまじんぐう)は、茨城県鹿嶋市にある神社。式内社、常陸国一宮で、旧社格は官幣大社である。日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社である。同県神栖市にある息栖神社、千葉県香取市にある香取神宮と合わせて東国三社と呼ばれる。正月三が日は全国から60万人以上が参拝しており、初詣参拝者数では茨城県2位を誇る。
武甕槌神を祭神とする。武甕槌神が、香取神宮に祀られている経津主神とともに武芸の神とされていることから、武術の道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対になって掲げられていることが多い。
鹿島神宮の祭神は、『万葉集』にも詠われる「鹿島の神」という一般名称でも知られ、かつて地震は「地中に棲む大鯰(おおなまず)が起こすものと考えられていて、その大鯰を押さえつける「要石」を、鎮護する地震の守り神として現在にも伝わっている。

歴史:
創建は神武天皇1年、紀元前660年と伝えられているが、本当のところはよくわかっていない。『常陸国風土記』では、神代の時代に神八井耳命の血を引く肥国造の一族だった多氏が上総国に上陸、開拓を行いながら常陸国に勢力を伸ばし、氏神として建立されたのが現在の鹿島神宮の起源[要出典]だとされているが、倭奴国王印が1世紀中頃のことであり、卑弥呼が3世紀前半の人物であり、倭の五王が5世紀の人物たちである、ということを考えると、鹿島神宮の創建が紀元前7世紀であるとは考え難いという意見もある。平安時代に、「神宮」の称号で呼ばれていたのは、延喜式神名帳によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけだった。鹿島神宮・香取神宮共に蝦夷に対する大和朝廷の前線基地であった。宝物殿には悪路王(アテルイ)の首と首桶が祀られている。

ウィキペディアより

大会・ライバルに勝つ!!昇段する!!など各自目標に向かって、日々厳しい稽古に臨んでいる事と思いますが、やはり最後は「神頼み」!!

そこで、「武運祈願」では全国各地の「武運」にご利益のある神社・寺院等のパワースポットをご紹介していきたいと思います。

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