東京都

分類:寺院
所在地:東京都台東区上野4丁目6番2号
URL:http://www.marishiten-tokudaiji.com/
剣道に関連する事柄:
摩利支天

概要:
山号は妙宣山。本尊は大曼荼羅。開運摩利支天を祀ることから摩利支天山とも称される。周囲を商店に囲まれた環境の中で立体構造型の特異な寺院様式を呈しており、参道上にアメ横周辺では異色の空間といえる境内が広がる。正午や夕暮れ時の商店街に響きわたる鐘の音は、徳大寺の鐘楼堂によるものである。
この寺の創建年代等については不詳であるが、江戸時代前期の1653年(承応2年)に示寂した日遣によって開山されたと伝えられる。京都本法寺の日達が下総国中山(現在の千葉県市川市)の法華経寺へ赴く際に感得した聖徳太子作と伝えられる摩利支天像が1708年(宝永5年)この寺に安置され、その後江戸における流行仏のひとつとして庶民の信仰を集めた。
徳大寺に奉置される摩利支天像の姿は、左手をかかげ、右手に剣を持ち、走るイノシシの上に立つものである。元来、厄を除き運を開く勝利の守護神であり、武士や芸道者に多く信仰を集めた。その由来から武人の誉れ高い神を祀る寺として、戦前においての徳大寺は半ば神社並みの寺風を擁していた。この摩利支天像は関東大震災や東京大空襲などの災厄でも焼失を免れており、現在でも厄を祓う守護神として幅広く信仰されている。

*摩利支天とは
原語のMariciは、太陽や月の光線を意味する。摩利支天は陽炎(かげろう)を神格化したものであるが、元々はヴェーダ神話の暁の女神ウシャスが仏教に取り入れられた姿とも言われる。陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない。隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の通力を有すとされる。これらの特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があった。護身、蓄財などの神として、日本で中世以降信仰を集めた。楠木正成は兜の中に摩利支天の小像を篭めていたという。禅宗や日蓮宗でも護法善神として重視されている。日本の山岳信仰の対象となった山のうちの一峰が摩利支天と呼ばれている場合があり、その実例として、木曽御嶽山、乗鞍岳、甲斐駒ケ岳があげられる。像容は元来二臂の女神像であるが、男神像としても造られるようになった。三面六臂または三面八臂で月と猪に乗る姿などもある。

ウィキペディアより

分類:寺院
所在地:東京都品川区北品川三丁目11番9号
URL:不明
剣道に関連する事柄:
沢庵宗彭(不動智神妙録)

概要:
寛永16年(1639年) 徳川家光が沢庵宗彭を招聘して創建。沢庵を住職とする。
沢庵宗彭について
澤庵 宗彭(たくあん そうほう、天正元年12月1日(1573年12月24日) – 正保2年12月11日(1646年1月27日))は、江戸時代の臨済宗の名僧。大徳寺住持。諡は普光国師(300年忌にあたる1944年に宣下)。号に東海・暮翁など。但馬国出石(現兵庫県豊岡市出石町)の生まれ。紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開いた。書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。一般的に沢庵漬けの考案者と言われているが、これについては諸説ある。
寛永9年(1632年)、将軍徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海や柳生宗矩の尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された。沢庵が柳生宗矩に与えた書簡を集めた『不動智神妙録』は、「剣禅一味」を説いたものとして著名である。『不動智神妙録』は禅で武道の極意を説いた最初の書物である[1]。沢庵はいったん江戸に出て、神田広徳寺に入った。しかし京に帰ることはすぐには許されず、沢庵は同年冬駒込の堀直寄の別宅に身を寄せ、寛永11年(1634年)夏までここに留まった。宗珀とともに大徳寺に戻ったのち、将軍・徳川家光が上洛し、天海や柳生宗矩・堀直寄の強い勧めがあり、沢庵は家光に謁見した。この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになった。
同年、郷里出石に戻ったが、翌年家光に懇願されて再び江戸に下った。沢庵は江戸に留まることを望まなかったが、家光の強い要望があり、帰郷することは出来なかった。寛永16年(1639年)、家光は萬松山東海寺を創建し沢庵を住職とする。家光は政事に関する相談もたびたび行ったが、これは家光による懐柔工作であると考えられている。それは逆に言えば沢庵の影響力がいかに強かったかを示している。正保元年(1644年)、土岐頼行が萬松山東海寺に出羽国上山の春雨庵を模した塔中を、沢庵のために建立した。晩年の沢庵の言動は変節とも、家光に取り込まれたとする説もあるが、最終的には紫衣事件において幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らへ紫衣を完全に奪還し、無住状態の大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯を揺らぎないものにしたのである。正保2年12月11日(1646年1月27日)、沢庵は江戸で没した。「墓碑は建ててはならぬ」の遺誡を残しているが、円覚山宗鏡寺 (兵庫県豊岡市出石町)と萬松山東海寺(東京都品川区)に墓がある。
*『不動智神妙録』の原本は現存せず、沢庵から柳生宗矩に書き贈ったという事実を証する史料はないが、沢庵の作であり、しかも柳生宗矩のために書いたということは当時から認められていたようであり、今日では定説となっている(同書)。

ウィキペディアより

分類:神社
所在地:東京都練馬区高松3-19
URL:不明
剣道に関連する事柄:
服部半蔵奉納の仁王像(仏教の守護神)

概要:
天正10年(1582年)京都でおきた「本能寺の変」の知らせを聞いた徳川家康は国元の三河に急いで帰国しました。このとき家康を警護していたのが伊賀衆でした。その後家康が江戸に入城したときに、伊賀衆はこの功績により新たに領地を与えられました。練馬の一部もその一つです。江戸に移り住んだ伊賀衆は服部半蔵の支配下におかれました。こうしたことから服部半蔵が奉納した仁王像が区内でみつかっています。服部半蔵奉納の仁王像は、阿形と吽形の2体で、いずれも高さが約1mあります。特に阿形像の後背には、「宝永三年(1706年)十二月廿日 大垣氏 服部半蔵尉藤原幸隆」の銘があり、この辺りが江戸時代に服部半蔵とゆかりのある土地であったことがうかがえます。もとは現在置かれている御嶽神社より約150mほど北側にあった高松(こうしょう)寺にありましたが、明治の初めに廃寺となったため、現在地に移されました。

練馬区の文化財あんないより

http://www.city.nerima.tokyo.jp/shiryo/bunkazai/bunkazai/b009.html

情報提供:剣道学会員 ジョリ剣さん

分類:寺院
所在地:東京都練馬区桜台六丁目20番18号
URL:不明
剣道に関連する事柄:
柳生宗矩(柳生新陰流)

概要:
戦国時代、関東一円に勢力を扶植していた北条氏当主・北条氏政の3男で、岩槻城主であった太田源五郎(長年太田源五郎は太田氏房と同一人物であるとされてきたが、近年の研究で、氏房の早世した実兄が先に太田氏を継承して「源五郎」と名乗っていた事実が判明している)が小田原に明叟和尚を招き、早雲寺の子院として開山したことが由来とされている。しかし天正18年(1590年)に豊臣秀吉の遠征により小田原城は開城し、北条氏が滅亡した際に広徳寺も炎上、焼失したとされている。その後、秀吉の命により関東を所領とした徳川家康は、天正19年(1591年)に広徳寺の2世となる希叟和尚を招き、江戸の神田に広徳寺を再興した。そして寛永12年(1635年)には下谷に移り、加賀前田氏をはじめ、九州の立花氏、織田氏、柳生氏など多くの大名が檀家とする大寺院となった。その広さは大田南畝の狂歌で「びっくり下谷の広徳寺」と詠まれたほどである。(これは現在でも知られている地口の一つで、「恐れ入谷の鬼子母神」などと並んで知られている)しかし大正12年(1923年)の関東大震災により、寺域はほぼ焼失。その2年後の区画整理で現在の練馬区に墓地だけを移転し別院とした。昭和46年(1971年)には本坊も移転し、現在の形となった。

ウィキペディアより

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